全スポーツ界を震撼させたであろう事件が先日起こりました。
その事件は、私にとって「スポーツはそもそも何なのだろうか」と深く考えさせるきっかけになりました。
スポーツの祭典、オリンピック。
自分や、その他本当に多くの人が、
次の平昌オリンピック、そして東京オリンピックで、
より多くの日本の選手が、メダル、金メダルを獲得することを願っているのは
まぎれもない事実だと思います。
ただ、その栄光の獲得のために、
ドーピングやその他のルール違反を犯すことに対しては、
「そこまでして勝ちたいのか」
という強い非難が向けられるのもまた事実だと思います。
たとえそれが万が一バレなかったとしても、ルール違反でなくても。
例えばサッカーにおける試合終了間際での「時間稼ぎ」や、
ゴジラ松井の5連続敬遠も、れっきとしたルール内のプレーであり咎められるものではないですが、
何か違和感を感じるのは、そうした日本の文化なのだと思っています。
つまりは日本においては、
勝利以上に求められることがあり、
それを満たした上での勝利でなければ、
評価されないという意味だと思います。
逆に、故意なるドーピングや、ルール違反が絶えない国においては、
勝利こそが第一義であり、勝利のためには
ドーピングやルール違反をしてはいけない、
だから、バレないのであれば、グレーなのであれば、
何をしてもいい、という価値基準なのではないかと予想します。
日本における勝利以上のものとは何か。
スポーツのそもそもの意義、美点は何か。
「正々堂々戦う」という言葉ではおさまりきらない、
ルール以上のルールを守ること、
ルール以上の何かを表現することを
求めているような気がします。
スポーツにおいて、競争とは、
自分自身が一人では到達し得ない場所に、到達するための大きな手段であり、
人間は競争することを通じて、自己最高を表現できるように
なっているように思います。
例えばスピードスケートがなぜ一人のタイムトライアルではなく、わざわざ二人で競争するのか、
それは「その方がタイムが出るから。」と聞いたことがあります。
競争によって、勝者が一人に決まり、結果的に負けてしまったその他全員を蹴落としているように見えますが、
実際は、お互いが、参加選手全員が自己最高を、ベストを出すために競争が行われているのではないでしょうか。
相手が相手の自己ベストを出せるように、自分が相手の最大の障害物になること、
それが選手にとっての最大の相手に対する貢献であり、
競争の本質なのではないかと思います。
競争を通じて、相手を伸ばし、自分を伸ばす。
そうした経験をスポーツを通じて得る。体験する。
そうした経験に感動し、またそうした姿に感動するから、
私たちはそんな姿を見やすいオリンピックに感動するのではないでしょうか。
そしてそんな経験、相手を伸ばし、自分も伸ばせる経験を積んだ人が
この実社会にあふれているとしたら、社会はより素晴らしく繁栄するのではないか。
その一種の発生装置として、スポーツがあるのではないか。
そう思っています。
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