「特定の人間の宗教を強制的に改宗させる」という大きな苦痛を与える行為に対して、
報酬として改宗後に、1ドルや2ドルだったかをプレゼントする。
そうすると、
改宗を強いられた人は、
「そんなちっぽけな報酬のために改宗したのではない、
俺はこの宗教に惹かれて改宗したのだ」と
それまで頑なに拒んでいたはずの自分の考えを改めるらしい。
逆に、100万円なり200万円なり見合う対価を与えれば、
「生活のためには仕方なかった」など、そうした解釈をしてしまうため
「本当は改宗したくなかった」と本音を変えることはできないという。
認知的不協和の話。
人は矛盾に耐えられないという話。
大きな苦痛に対して、人は同等の大きな見返りを求める。
大きな苦痛に対して、金銭的報酬という「事実」がほぼゼロだった場合、
変えられるのは自分の「認識」だけになる。
だからこそ「本当は改宗したかったのかもしれない」という自分の認識を変えることによって、
人は矛盾を解消する。
1ドルのために改宗したわけじゃないよね、改宗したかったんだよね、と。
見合った事実が認識できない場合、
人は自分の認識を変える。
部活動にしろ、仕事にしろ、
こんなに時間を割いて、汗をかいて、
本当に何も残らなかったとき、結果が出なかったとき、
私たちは大きな矛盾にぶつかる。
そして、結果という事実は変えられないから、
「仲間が出来た、精神的に豊かになった、いい学びを得た」など、
新しい結果を作ったり、認識を得たりする。
今回のブログで言いたいのは、それがダメだと言っているのではなくて、
むしろ逆で。
大きな代償を支払って、いわゆる100万円、200万円、もしくはそれ以上、
日本一だったり世界一だったりを得た場合、
「それが見返りのすべて」として認識してしまい、
「仲間、精神的豊かさ、学び」といった新しい認識を発見できない可能性が高いこと。
私たちは矛盾に耐えられない。
だからこそ、新しい視界を手に入れる。
大きな代償を払って、何もない、という状況は
非常に耐えがたい時間だけど、
だからこそ、より大きな新しい視界を得る。
与えられる報酬に満足するか、
新しい報酬を自分で発見するか。
勝っても負けても、
与えられた報酬に満足しない、
もっともっと自分が費やした時間は、汗は、本当に貴重なもので、
優勝や金銭では何も対等になりえないと思うこと。
実際できるかわからないけど、
負けても、勝っても
想えるような、そんな人生を送りたい。
今回のビーチスプリントやコースタルの世界選手権は、
家族の時間的にも、コーチ業としても、大学院的にも、お財布的にも、
いろんな意味で大きな代償を払った。
だいぶ大きな矛盾を得ている。
大事なのは、「自分が払った代償は、そこまで大きくなかった、自分の人生なんて、大した人生じゃない」
と卑下しないこと。自尊心大事。
勝負はここからになります。
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