大学4年の時、ボート部の主将として、なんか無駄に悩んでいた時期があった。
部員は100人ぐらいいて、
同い年やほぼ年齢変わらない人たちを
「ボート」とか「日本一」とかそんな
たった三文字を団結に変えていく難しさ
というのを非常に感じた。
あまりに疲れていてあまりに悩んでいたから
就活の面接で
「最後に何か質問はありますか?」
という面接官の方に
「不休&無給&無規則の部活動チームをまとめるにはどうしたらいいですか?」
的な事を聞こうか迷ったか覚えてないけど、いま思えば聞けばよかったかもしれない。超失礼だけど。
「1つのチームを最良の結果に持っていく。」
この困難さ難しさ。ストレスな感じ。
大学を卒業して思ったこと。
「何が正しいか」ってのを考えすぎても窮屈になる一方だなってこと。
最良の結果を得るという責任において、間違った判断、決定はできない。
だから「どれが一番正しいか」っていう考えになるのは仕方ないんだけど、
「正義」は往々にして排他的になる。
「正しくない」奴を許せなくなる。
それでチームの雰囲気悪くなって結果も出ないっていう。
それって「正しく」ないじゃんね。
あの時自分は人に嫌われたくなかったから、そこまで「正しさ」を追求できなかったけれど。
そして正しさを追求できない自分をイヤになったりもした。
何かの本で
「イスラム教とキリスト教、どちらが『正しいか』って考えるから戦争になる。こっちの宗教も『楽しい』けど俺の宗教の方が『楽しい』よ、って言い合えたら戦争なんて起きない」
みたいな事が書いてあって、
ハッとした。
「正しい、正しくない」は削っていく発想で
「楽しい、楽しくない」は増やしていく発想なんだと思う。
あんまり削っても折れちゃうし
あんまり増やしても重くて進まなそうだけど
どっちもどっち大切なんだろうなって思う。
適正体重。
あの時「どっちが楽しいか?」
っていう発想もあればよかったな。
「どっちが正しいか」一方じゃなくて。
正しさなんて時代が作るし
違ったりもする。
楽しいの追求は堕落に繋がりそうだけど。
「こっちの方が楽しそうだからこっちにしました」なんて上司に言えないから、
理屈屁理屈くっつけて「こっちの方が正しいです」って言ったりもするだろう。
結果を得たいのは、楽しそうだから。
楽しそうだから、不休&無給&無規則のブラックもびっくりの宇宙世界で頑張れるのだと思う。
「正しそうで楽しそう」
もしくは
「楽しそうで正しそう」
これからはそんな判断で生きていけたらいいなあ。
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