「あきらめるな」と言う。
「あきらめたらそこで終わりだ。」と言う。
自分は人に「あきらめるな」とはあまり言えない。
自分自身、たくさん諦めたから。
でも違う意味の「あきらめるな」は言える。
諦めないために、諦めることもあるということ。
最初にスポーツを始めたのは水泳で、4歳ぐらいからだったと思う。
9歳ぐらいから選手コースになり、週6で水泳だった。
頑張って頑張って、タイムは伸びたが、
全国大会へ行くほどのタイムには、どんなに頑張っても無理だった。だから「あきらめた」。それが生まれて初めての諦めだ。
今でも水泳選手を尊敬するのは、自分には到底不可能だった世界に行ってるから。
合宿所で水泳選手とエレベーターが一緒になれば、「俺なんかよりどうぞお先に!!」って思う。
自分の時代の無理さえ軽く超えて、更に先へ行っているなんて、凄すぎて敬服しかない。
あの時あきらめなかったら、自分はどうなっていたんだろう。「あきらめるな」を信じて、飛躍的に向上したのか、それとも自己嫌悪にさいなまれていたか。
努力には人を殺す力がある。それを感じたから、自分は逃げたのだと思う。自分を諦めないために。
それからサッカー、テニス、陸上と腐るほど「あきらめ」、偶然出会ったボートとこうしてここにいる。
だから自分に「あきらめるな」と言う資格はない。
でも、「あきらめなかった」のも事実だ。
正確に言うと「あきらめられなかった」。
「自分は何かしらできるはずだ」という思いはどうしてもあきらめられなかった。
だからこそ、「お前はどれだけ頑張っても何もできない奴だ」と自己否定してくる競技たちを、ひたすら諦めたんだと思う。
(陸上時代。さてどれでしょう笑)
ボート選手はみな、だいたいそうかもしれない。何かしら諦めてきた選手ばっかりだ。
「前は何のスポーツしてたの?」
と普通の競技の人は聞かない。
水泳だったら最初から水泳してるし、サッカーもテニスもみんなそう。そんな質問する人は中々いないけど、ボートでは普通だ。
「何のスポーツしてたの?」
それは同時に「過去に何を諦めたの?」みたいな質問だ。
「あきらめるな。」
それは
「自分自身をあきらめるな」。
そういう意味だと思う。
自分は、スポーツで、何かしら一番になりたかった。何のスポーツでも実際よかった。
人の価値を測る物差しなんて沢山ある。
水泳がすべてじゃない。
そして当然のようにボートがすべてじゃない。
夢は叶う。
努力は報われる。
そう思う。
でも、それは何十年後かわからないし、それがどんな形で報われるかはわからない。
水泳の心肺機能がボートに生きるなんて誰も予想できないだろう。
同じ事が、積み重ねてきた人だけに起こるんだと思う。
どんな花がいつ咲くのか誰にもわからない種まき、水やりを「努力」というのだと思う。
自分は運良く最近で、運良くボートだった。
ただそれだけの話。
死後何十年後に評価される音楽家のように、
生きているうちに評価されない人もいるだろう。
あきらめない。
重い言葉だと思う。
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